「ビジネスの現場では、もう執拗に合理性合理性って連呼されているな。まあ、無駄を極力なくそうって考え方はわかるけど、なんかやりすぎな感じがするんだよな。てか、そんなに無駄が許せないなら人を雇用すること自体無駄だよな。もう、全部AIにしてしまえばいいんじゃね?なんかうんざりだわ。」
まあなあ、そもそも人間自体が非合理性の塊みたいなもんだもんなあ、ま、見方によるけどさ。
オニギリス!
脱マンネリストのオニギリです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は『「合理性って何?」非合理も合理的?基準を変えたら無駄も無駄でない?』という話です。
今回は以下の様な方に向けておおくりします。
- 合理性について少し考えを深めてみたい人
- 無駄なものが何かを探ってみたい人
「合理性」というワードは、現代社会、特にビジネスの現場では非常に声高に叫ばれています。
職場で「合理性が大事だ。効率化して無駄をなくせ!」と上司からせっつかれるなんて場合もあるかもしれません。
はい、「合理性」、、、わたしは大好きな言葉ですが、少し立ち止まって考えてみると、「合理とは理に合っていること、、、はて、そもそも、『理』とはなんだろうか?」と少々懐疑に陥りました。
そう、、、「無駄なもの」は見方次第でかなり変わりそうな感じがしてきたんですね。
初めに言っておきますが、この記事はかなり主観的な内容となってしまうと思います。
そこを最初に申し上げておきたい次第。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
合理性の「理」とはなんだろうか?
さて、まずは合理性とはどういう意味なのか確認してみましょう。
一般的には道理にかなっていることを意味し,日常的には科学的であること,科学的に証明できること,ないし理想とされる価値にかなっていること等の意味で使われている語
参考
さあて、どうでしょう?
何かいろんな意味があるようですねえ、合理性。
「合理」とは文字通り「理に合っていること」です。
ということは、合理的か否かは「何を理とするか」で変わってくるんですよね。
上記定義でいうなら、基準である理には科学や道理(道徳、倫理等)、理想が含まれていることになります。
しかし、聡明なあなたが気が付いているように「一般に」と定義の文頭にあるので、「別に理は科学や道理等なければいけないわけではない」んですね。
理のとらえ方によって、物事はいろいろと解釈できるってわけです。
非合理も合理的だったりする
上述のように、合理的かどうかは「理の選択」に依存していました。
何を基準とするかで、「理に合っているかどうか」は変わってくるんでしたね。
はい、ということは「常識的には非合理的であっても合理的である」という場合もあるということになります。
例えば、昨今軽蔑されている根性論なんかは「結果を最小限の努力で出す」という視点から見れば、合理的ではないものの代表といえると思いますね。
そして、個人の成長や能力の強化を考えた場合は、根性論はなおさら無益といっていいでしょう。
ただ、組織としての結束力を高めるなんて言う視点から見ると、もしかしたら何らかの心理的効果があり、それによって実力以上のパフォーマンスが発揮されるなんて事態もあり得ます。
そういった意味では、もしかしたら根性論にもある一定の合理性があるもかもしれません。
まあ、だからといって、わたしは決して根性論を支持しませんが。
そうやって考えてみると、人にはそれぞれの「理がある」とすらいえそうな気がしてきます。
まあ、多少乱暴な言い方ではありますけどね。
その人の独自の感性やそれに基づく数多の経験、それによって形成された「独自の理」が、全ての人にはあるなんて考えられるかもしれません。
その「独自の理」によって、一般的にみたら「非合理な決定」を各人がせっせと日々行っていると見ることも可能ではないでしょうか?
まあ、その独自の非合理性すらも科学である心理学なんかはせっせと「その理」によって説明しようとするわけですが、、、、。
うん、何を言いたいのかわかんなくなってきた(笑)。
まあ、一ついえるのは、、、
「『自分にとっての理が相手にとって通じないのは当然だ』という姿勢で人と接するようにしたほうが、軋轢が少なくて済む」
てことでしょうかね、、、、。
性急な結論で、すいもはん。
感情を下に見てはダメ
ビジネスの現場で使われている合理的とは、おそらく「経済合理性の観点から見て合理的」ということかと思います。
なので、ビジネスの現場で「合理的だ」という言葉を人が発する時、それは経済的な観点からみて「理にかなっていて効率的」、つまりは「無駄がない」ということを意味してるといっていいでしょう。
この際にいわれる「無駄」とは往々にして「経済上のコストや成果に直結しない雑務等」のことであると思われます。
そして、ビジネスの現場では「感情なんて無駄だ」のような極論が言われることもままありますね。
しかし、実際、感情が無駄なものかというとそんなことはないです。
従業員の立場からしたら感情は仕事のモチベーションに大きくかかわるものですし、顧客に関して言えば基本的には「感情で物を買う」側面が大きいですから感情を軽視するのは賢明とはいいがたいですね(もっとも、業種によるとは思う)。
職場の指揮をあげてパフォーマンスをあげるのであれば感情を軽視できませんし、モノを買ってもらいたいなら顧客の感情を無視できません。
そもそも、現代正統派とされる新古典経済学では、その基本的仮定として人間を「自己利益を最大化しようと選択し行動する存在(合理的経済人)」であるとしていますが、実際は果たしてそうでしょうか?
現実は、自己利益の最大化からは程遠い行動をする人ばかりであふれています。
心理的側面から言えばそれこそ数多のバイアスや心理効果によって、人は日々経済的には非常に非合理ともいえる選択をし続けているものです。
なので、「合理的=感情を入れずに理性で判断」みたいに考えるのも少し考えもんだなって気がします。
感情を軽視しがちな人は改めて感情の重要性について考え直してみるのもありかなって思う次第。
なお、理性だけでは人は行動できないなんて話もあります。
詳しくは以下からどうぞ。
※工事中
そして、バイアス等について詳しくは以下からどうぞ。
おわりに
この記事は「「合理性って何?」非合理も合理的?基準を変えたら無駄も無駄でない?」と題しておおくりしました。
ある物事が「合理的であるか否か」は「何を理とするか」で変わってきます。
一般に合理的という言葉が使われる際、その「理」は科学や道理等です。
しかし、理は別に「科学や道理等」でなければいけないという決まりがあるわけではないので、極端な話ですが「理の設定次第で物事が理にかなっているかどうかはいかようにでも変わる」といえます。
そう考えると、「無駄なんてものはない」ともいえるでしょう。
そして、ある意味で「ある個人の考え方も一つの理」と考えることもでき、そう考えた場合「世界に理が無数に存在している」といえるはず。
なので、自分にとっての理が絶対と思わず、「ほかにも理がある」という認識を持つことで、他者と分かり合うことも可能になってくるのではないかって思う次第。
、、、綺麗事かもしれませんけどね。
まあ、控えめに言っても「相手がどんな理に沿って動いているのかを知る」のは重要だと思います。
では!
参考記事等