「よくちまたに政治家の汚職に憤るおっさんやら芸能人の不倫に怒ったりしている主婦の人、非道徳的な事件がニュースで流れてやたらヒステリックに憤慨している人っているけどさ、、、。あれってなんかとっても白々しいな。赤の他人のことなのに何であんなにさも自分の事みたいに怒っているの?おまけに最後には大体「こんなこと同義的に許されない」て、、、、なんていうか疲れないのかね、あの人達は、、、、意味わかんね。」
まあ、そこまでさめているのもどうかとは思うけど、あんまりイライラするのは体に良くない!
オニギリス!
脱マンネリストのオニギリです!
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「義憤は存在しないのかもしれない」という話です。
、、、、え?
何バカな事言ってんのかって?
まあまあ、一応これは「心理学上の一説」の話です。
結論から言うと、「人は道徳違反に怒るのではなくて、自己や同胞に危害が及ぶ場合に怒っているだけなのではないか?」という事です。
つまり、「怒り」とは利己的な感情である可能性があるということです。
今回の記事はこの論文の内容を参考にしています。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjesp/54/2/54_1315/_pdf/-char/ja
では、ゆるりとおおくりします。
目次
1、義憤って何なのか?
さて、あなたは義憤という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
義憤とは
「同義に反する出来事やそれに関与する人の行動を見て生じる強い怒り」
のことを言います。
そして、義憤は自分が被害にあったか否かに左右されるような感情ではないです。
なので、個人的な被害のあるなしに関わらず、行為者が道徳的に違反する行為をしているという事実を知るだけで生じる感情なのですね。
例えば、自分に無関係なはずの芸能人の不倫やら誰それが残虐な事件に巻き込まれてひどい目にあったなんて話を聞いて怒っている人達っていますね?
あんな感じの人達がいわゆる「義憤に駆られている人々」だと言えるのではないでしょうか。
まあ、冷静にものを見ている者からしたら「何でこんなに感情的になっているんだ?そこまでおこることかい?」と思う感じはありますが、義憤自体は有益ではあります。
義憤は、加害者に対する加罰、被害者支援などの公正回復を道徳的立場から動機づけるのです。
ただし、現状怒りと道徳違反を実証的に扱った研究に関して、義憤の根拠は不十分であると言います。
義憤ってかなり難解な感情ですねえ。
2、義憤は結局は私憤?
実は実は、心理学の世界にこんな説があります。
それが「怒りの私憤説」。
つまり、この説を端的に言うと、「怒りは利己的な感情である」ということです。
研究者の中にはそもそも人が正義感だけから怒るということに疑問を感じている人達がいると言います。
それは道徳的な立場から不当とされるような出来事によって、目標妨害などの個人的な被害やそれを被る可能性が含まれることも少なくないからです。
例えばですが、政治家の汚職の話でいえば道徳がどうこうという視点以外にも、「税金の正しい使われ方」等の様々な視点が含まれてきます。
結局、自分の利益が関わってきているって話。
そうすると、公正さを回復しようという行動の中にも当然のことながら、自分の利益に対する関心が動機となっているものもあるはずです。
近年では、道徳違反を含む場面において、義憤説ではなく私憤説に一致する証拠が多く提出されるようになっていると言います。
ただ、留意するべき視点としては
「同じ違反行為であってもそれをどう感じるかは人による」
ということです。
上記研究では、これをふまえて公正に対する敏感さの高い人々を対象にして、公正に対する敏感さが道徳的違反場面において義憤を誘起するかを調べました。
しかし、その結果は
「他の研究と同じく私憤説と一致する結果しか出なかった」
んですねえ。
3、いい意味で全部他人事でいい
義憤というものが存在するのかしないのかについては、上記のように「あくまで今の段階では」その存在は不明です。
ここからは、個人的な見解になりますが、別に義憤とものを感じる必要はないと思います。
怒りの感情は当然ながらネガティブ感情ですから、ないならないに越したことはありませんよね。
では、義憤に振り回されないで済むにはどうしたらいいのでしょうか?
これに対しては色々な解決策はあるでしょうが以下のようなものが考えられると思います。
- 他人と自分を比較したり、他人に期待することをやめる
- そもそもニュースは聞かない
- 自分にどうしようもないことは諦める
以下順次簡単に説明して見ます。
・他人と自分を比較したり、他人に期待することをやめる
他人と自分を比較するとどうしても自分の足りない所ばかりに目がいって、自己否定に陥る可能性があります。
自己否定に陥ると「あるがままの自分を受け入れる」のが困難になってしまいます。
結果として、他人に対して嫉妬をしやすくもなります。
嫉妬の感情が悪いわけではないですが、基本的に感じないなら感じないに越したことはないのが事実なので、他人と自分を比べたりはしない方がいいです。
なお、義憤を感じる人は自分の損得度外視で道徳違反者に対して攻撃を加える傾向があるといいますが、この傾向は嫉妬の感情を基調とした「他人を引きずりおろすのに喜びを感じる」感情であるシャーデンフロイデに通じるところがあります。
自分が感じている怒りが「嫉妬によるものなのかどうなのか」はしっかり考える必要があると言えますね。
シャーデンフロイデについてはこちらをどうぞ。
・そもそもニュースは聞かない
はい、怒りやすいのであれば怒りの発生源から距離を置いて関わらないのも手です。
ネガティブなニュースを見ているとどうしても、ストレスになります。
そうであれば、そもそも「ネガティブなニュース自体を見ないようにすればいい」んです。
テレビは見ないようにするとかで対策できるでしょう。
詳しくは以下からどうぞ。
・自分にどうしようもないことは諦める
はい、あきらめのよさも大事です。
自分がかなりの労力を払わないと無理な事は、そもそも割に合わないので「これは自分にはできる範囲のものではない」と判断してもう相手にしないという姿勢になるといいです。
基本的に自分を犠牲にしてまでやらなきゃいけないものなんてこの世にはないです。
4、社会のことよりまず自分
はい、言い方に語弊がありそうですが、「まず自分が満たされること」を考えましょう。
自分を犠牲してまで何かをやったり人を助けたりなんてしなくていいです。
怒ったところで何にも変わんないので、怒りなんて割に合いません。
その時に自分ができることを冷静に見つめて、淡々と必要性に応じてやっていけばいいだけです。
怒ることより実際に行動して状況を変えることの方が大事ですね。
怒っているだけで何もしないなら、正直怒っているだけエネルギーの無駄です。
自分がどうにかできそうにないことに怒っているなら、もう諦めて「こんなことはよくある」とでも思ってスル―した方がいいです。
でないと、幸福感が下がるだけでいいことはないです。
自分が満たされて初めて「本当の意味で人に何かしてあげられる」と個人的には思っています。
よく「衣食足りて礼節を知る」ということわざがありますね。
まず、自分が満足してもいないのに社会やら他人やらのことなんてとてもじゃないけど考えられるはずはないです。
とはいえ、「衣食足りた」と言う感覚になるには個人差がありますね。
欲にとらわれる限りは、いつになっても自分のこと以外は考えられないでしょう。
そのような「欲にとらわれた状況は本人にとってはとても辛いもの」です。
いつだって、飢えと渇きを抱えているのですから。
ですから、自分の追いかけている「欲望の対象」が本当に自分を幸せにしてくれるものなのかを見極める必要があると思います。
そのために、「これさえすれば」という明確な結論は示せません。
ただ、私なりに言えることがあるとすればそれは、、、
「まず、自分の人生で本当に欲しいものをしっかり確認すること」
だと思います。
人生で欲しいものをみつける方法についての記事を置いておきます。
本当に欲しいものさえ見つかってしまえば、他は極端な言い方をすれば「ゴミ」に等しいとすらいえます。
さて、あなたの人生で本当に大事なものってなんでしょう?
おわりに
この記事では「義憤は存在しないのかもしれない」という話題について述べました。
ネガティブなニュースに怒りやすいなら、以下のようなことを心掛けてこころ軽くいきてみませんか?
- 他人と自分を比較したり、他人に期待することをやめる
- そもそもニュースは聞かない
- 自分にどうしようもないことは諦める
わたし自身はここまで主として「義憤なんていらない」という論調を展開してきました。
それというのもツイッタ―をやっていても、世間を見ていても、不思議な事に不正等に「こころに余裕のなさそうな人ほど怒っている(わたしから見て)」のです。
この状況を見ていると、多くの人は「本当は義憤を偽装して私憤を発散しているだけ」なのではないかと思ったんですね。
なので、これから個人の幸福感を底上げするのに必要なのは心理学的には、義憤とかそんなものより「そもそも、怒りにくいメンタルをつくることではないか」とおもったのです。
ま、義憤自体は論文にもある通り有用です。
わたしも完全には否定はしません。
でも、現時点では義憤が幸福感を高めるとはおもいません。
では!