「ボッチ飯ってはた目から見たらマジでかっこ悪いしかわいそうじゃね?なんかいかにもインキャって感じがしてクソやん。ボッチ飯とかないわ―。」
別にボッチであろうが何であろうが飯は飯や。
気にすることないやん。
変なこと気にしていると疲れるぞい。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「ぼっち飯がかっこいいとかかわいそうとか知らんがな。どうでもよくね?」という話です。
今回は以下のような方に向けておおくりします。
ぼっち飯について少し考えてみたい人
「ぼっち飯」というワードから「インキャ」を想起する人は、それなりにいるかもしれません。
まあ、気持ちはわかりますよ。
なんせ、「たった一人で孤独にご飯を黙々と食べている」わけですからね。
周りからみたら「友達いないんかな?」を思われそうです。
でもね、そんな事本来別にどうでもいいのですよ。
承認欲求を減らして「ボッチで何が悪いねん!」と開き直ってしまっていいと思いますよ。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
ぼっち飯はカッコ悪いしかわいそう?
なんか世の中には一定数「ぼっち飯はカッコ悪い、かわいそう」なんて意見があるようです。
さて、どうなんでしょうか?
少しぼっち飯ってかっこ悪いものなのかについて考え見たいと思います。
と、その前にまずは「ぼっち飯」という言葉の意味を確認しておきましょう。
言葉の意味が分からん事には何も始まりませんからね。
という事で、ぼっち飯の意味を確認してみると以下の模様。
主に大学生などが、一緒に食事をする相手がいないことなどから、1人で食事をすることを意味する語。ぼっち飯に不安や後ろめたさなどを覚える者も多く、その症状はランチメイト症候群といわれる場合がある。また、ぼっち飯をしている惨めな様子を他人に見られたくないという心情から、トイレの個室で食事をする「便所飯」という行為を行う者もいるという。引用
なるほど、、、「一緒に食事をする相手がいないから一人で食事をする」、、、これがいかにもインキャと言った印象を与えるわけですな。
まあ、一般に大体いわゆるヨウキャって徒党を組んで群れているイメージでしょうからねえ。
これってなんとなく「一人で焼き肉屋に行くと気まずい」といった心理に通ずるところがありますな。
で、こういった心理が悪化すると「人に自分はインキャとか友達がいないと思われたくない」ので、便所に籠城してご飯を食べる便所飯に発展するってわけですなあ。
んー、そこまで人の目を気にするかあ、、、って感じですが、気になるもんは仕方ないですよな。
ただ、実際に「ぼっち飯なんてかわいそうだよねえー」とかいって何マウントか知らんけど、マウント取りたがる人が一定数いるのも事実です。
例えば、ツイッターで「ぼっち飯 かっこ悪い」とか「ぼっち飯 インキャ」とかのワードで検索かけてみると、ぼっち飯に関する世論が見えてきますなあ、、、、。
まあ、、、、ツイッター見ているとぼっち飯を一番気にしているのは食事している本人のような気もするけど、、、。
あと、そもそも「ぼっち飯」ていう名前が完全にバカにしているんよなあ。
ぼっちめしはかっこいいともいえる?
ちと、無理やりだけども「ぼっち飯」に対する見方を変えてみるのもいいかもしれません。
そう、どうにかして「ぼっち飯ってかっこよくね?」て感じにとらえなおせないかってことです。
ぼっち飯を気にする最大の原因は、「一緒に食べる相手がいない孤独感」と「周囲からいわゆるインキャと思われる」というものでしょう。
しかし、ちょっと考えてみてください。
孤独というものも人生の中においては大変重要なものです。
確かに、「人生通してずっと孤独」なのはメンタルの件橋上よくはないかもしれませんが、時として人生においては「じっくりと自分自身と腰を据えて向き合う時間」が必要となるものだと思います。
その時間を経て初めて「自分が何を欲しているのか」や「自分はどういった人間なのか」と言った洞察が深まるといえましょう。
ぼっちであることを卑下することはないのです。
それは所詮「そのじきにボッチであった」というだけのことであり、未来永劫ボッチであることを意味していません。
そのぼっちである時期に「しっかりと自分と向き合って自分が何を求める人間なのか」についてしっかりと思考を深めることで、今後どういった方向性で生きていったらいいのかわかってくると思うんです。
そういった意味では、ぼっち飯をする人は「孤高の哲人」とか「孤高の求道者」といった見方もできるのではないかと思ったりしますねえ。
群れていろんな人の意見を聞いてショーもないおしゃべりに花を咲かせるのもそれはそれで楽しいものですが、自分一人になってしっかりと自分の考えを醸成する時間も必要なんですよな。
ぼっち上等ではないですか。
例えば、いわゆる天才と言われる人達にもいわゆるぼっちな人達が結構いる印象です。
というか、一つの分野を極めたいと真剣に思い詰めると「ぼっちにならざるを得ない」のです。
人とどうでもいいおしゃべりをしている時間があるなら、自分のやるべきことを少しでも前にすすめた方がいいってことになるわけですからね。
まあ、ちょっと誇張している感はありますが、「ぼっち飯上等」なんですよ。
「ボッチで飯食って何が悪い?」って感じ。
孤独が人を成長させるのもまた事実です。
そもそもぼっち飯がかっこいいとかかっこ悪いなんてどうでもいい
ぼっち飯を気にするのは、結局のところ「自分がぼっちだと思われたくない」という見栄みたいなものが最大の原因だと思います。
その気持ちにある程度は理解を示せますが、そもそも「ぼっち飯なんてもの自体どうだっていい事」なんです。
こう言っては何ですが、「友人の数が多ければいい」という話ではないので
早い話が友人は「量より質」なんです。
自分が一緒にいて居心地の悪い人となんて一緒にいる必要はないので、合わないなら距離をとっていいんですね。
もしそれで結果的にそのコミュニティー、例えば学校などでボッチ化したとしてもそのコミュニティーの外にある別のコミュニティーで自分と気の合う一緒にいて楽しい仲間を見つければいいだけの話です。
問題なのは「今自分が属しているコミュニティーの人間関係に過度に依存してしまう事」と言えます。
行動の範囲を広げて色んなつながりを模索しいけばボッチ等問題ではありません。
なので、もしそういった事を念頭に置いておけば、「自分は進んでぼっち飯を食らっている」と意識できるため何も恥じることも後ろめたさを感じることはありません。
だって、周りはあわない連中なんですからあえて積極的に関わりを持つ必要なんてないのです。
ただ、もし「関わりたいけど勇気がない」という理由でボッチ化しているのであれば、自尊心を高めたりコミュニケーション能力を鍛えたりして人の輪に加わってみましょう。
ちゃんと明るくいけば人はそれなりに対応してくれるものです。
おそらく思っているより人は優しく親切なもんですから、少し勇気を出して声をかけて人の輪に加わってみることがおすすめですよ。
という事で、自尊心を高めたりコミュ力をあげるために役立ちそうな記事置いときますねー。たの
おわりに
この記事は「ぼっち飯がかっこいいとかかわいそうとか知らんがな。どうでもよくね?」と題しておおくりしました。
ぼっち飯なんて本来恥ずかしくもかわいそうでもありません。
というか、「そんなことどうでもいい」んですね。
もし、周りが「こいつら自分とあわねえな」と思うなら、別に無理に仲良くしようとしなくていいわけです。
それなら、他のコミュニティーで気の合う仲間を探せばいいだけの話ですよ。
一つのコミュニティーの人間関係に依存しすぎるのはリスクが高すぎます。
まあ、ぼっちであることが問題ではなくて、「自分の意思で関わり合いになりたいかどうか」を決めるというのが全てであろうと思いますね。
ええ、決めたらあとは無心で実践あるのみですぞ。
では!