今回は以下の様な方に向けておおくりします。
- ・老いを心底憎んでいる人
- ・老いは醜いと思っている人
- ・老いを受け入れるにはどうしたらいいかと悩んでいる人
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「老いとは醜さでしかないのか?少し心理学的視点から考えてみようか」という話です。
以前に結構微妙な記事書きましたけど、今回はもう一回老いの受け止め方について少し真面目に考えてみようかなって思った次第。
いやあ、個人的に老いはどう考えてもいい事だとは思えませんよなあ。
実際、わたしの場合、「老いる前に自分で絶対に人生を終わらせるぞ」とかなり前から腹をくくっているんですが、そこまで思っていなくても漠然と「何とかして老いない方法はないか」と必死になっている人っている人もいるかと思います。
わたしがなぜそこまで老いる前に人生終わろうとしているのかっていうのが気になる人は、まあ以前の記事を見てほしいですが、やっぱり老いとは嫌なもんです。
当たり前の事ではあれども、老化現象というのは非常に憎らしいですよ、ええ。
ちょっと、老いというものをどうしたらもっとポジティブに受け入れられるのかについてもう少し以前よりも心理学的な視点から考えてみたいと思う次第。
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では、ゆるりとおおくりします。
目次
老いなんて醜いだけである?
老いると身体能力や頭の回転、容姿といった様々なものが衰えていきます。
なので、老いなんかを喜ばしいものだなんて考える人はまずいないんじゃないかと思いますねえ。
特に、ぱっと見でわかるのが容姿ですな。
個人的に一番嫌なのが頭の回転が遅くなるのが最悪なのですが、それと少し劣後するくらいで容姿の劣化も嫌です。
※別にわたしの頭がいいという話ではない。単に劣化して可能性が狭まるのがはなはだ不快なだけである。
別にわたしは以前からこのブログで言及するように、個人的に自分の容姿に関して「まあ普通だろ」と特に高く評価しているわけではないのですが、昔から老いを象徴する「シワやシミ、たるみ」といったものに対して強い生理的嫌悪感を感じてきました。
この原因に対する明確な答えはわからないのですが、もうこういった老いを象徴するものは「汚物以外の何にも見えない」といったくらいです。
人によってはシワやシミといったものをある種の美しいものと取られる向きもあるようですが、個人的にこういった意見には「なんか無理してないか?生物的に間違ってないか?」といった違和感を感じたりはします。
まあ、決して否定しませんし、むしろこう言った考え方だと幸せなのも凄く分かるんですけどね、、、どうやっても納得いきません。
これはわたしにとっては本能的な反応とすらいえるもの。
それくらいに思っているため、世間でいう「年相応であるべき」とか「若作りはみっともない」といった思想をきくと大いに疑問を感じるものです。
「年相応でいいんだ」なんて話を聞くと、
「老いている事がぱっと見でよくわかる事は生物的に力等が劣っている事を示すだけになりはしないか?いわば弱者の証明ではないか。これが野生の肉食獣とかの場合なら、すぐにでも捕食なりされて終わりではないか?老いは醜さであり弱さだろうに。いつまでも見た目が不変でいる努力は最大限すべきだしそれが生物的にも最適解じゃないの?若作りも何も容姿をできる限り不変でいるように努力するのは凄く当然ではないの?年相応とか意味が分からない、、、」
、、、なんてかなりの極論が頭をかすめたりもするもんです。
まあ、、、まだまだ全然整理できていませんが、人の悩みを日頃よく聞いて何がしかの解決策もあわせて提案している自分自身も結構ここは困っているんですわ。
正直、今のところ全く解決していません。
心理学者たちは老いをどうとらえたのか?
さて、ではこれまで心理学者たちは一体老いへの向き合い方についてどのようにとらえてきたのかについて考えてみたいと思います。
・エリクソンの立場
まずは、ライフサイクル論で有名なエリクソンさんの考え方から見てみましょうか。
エリクソンさんのライフサイクル論では65歳以上をライフサイクルの最終段階である「老年期」として、その段階での発達課題を統合、心理社会的危機を絶望としています。
絶望とは文字通り「希望がない事」なわけですが、具体的には「自分の過去を否定的にとらえてこれからの高齢期に対して希望と喪失している状態」です。
対して、統合とは「これまでの人生の様々な経験が結びついていい人生であったと思えるか、またはこれからの高齢期に希望を見出せる状態」だといいます。
どうも、彼は自分の過去を受けた上で入れ人生自体を肯定する作業が老いを受け入れるには重要だという立場のようです。
そして、彼は晩年になってさらにこの最終段階の先の9段階を想定していたようで、そこで問題となるのは「老年期超越性の獲得」だといいます。
※9段階では彼は発達課題を設定していなかったといという。
老年期超越性とは、ラーシュ=トーンスタムさんによって概念化されたもので、「超高齢になっていたるとされる主観的な幸福感」の事です。
この老年超越性を獲得すると、老化に伴う各種能力の衰えを否定的にとらえる事がなくなり現状を肯定して多幸感を持つようになるといいます。
また表面的な人付き合いに意味を見出さなくなり、より限られた人ととの深い関係を重視するようになり、私利私欲もなくなってくるとか。
ふむ、、、悟りの境地みたいなものなんでしょうかね??
・ハヴィガーストの立場
次に、アメリカの教育学者であるハヴィガーストさんの立場を見てみましょう。
ハヴィガーストさんによると、老年期には以下の6つの発達課題があるといいます。
体力と健康の衰退に適応
引退と収入の減少に適応
配偶者の死に適応
自分の年ごろの人々と親密な関係を結ぶ
社会的・市民的義務を引き受ける
身体的に満足できる生活環境を確立する
んー、総じて「衰いへの適応」って感じですなあ。
・ペックの立場
心理学者ペックさんは、エリクソンの理論を前提としてビジネスマンを対象に中年期と老年期の心理社会的葛藤を検討しております。
ペックさんによると、老年期には以下の3つの発達課題があるのだそうな。
「自我の分化」対「仕事ー役割への没入」
「身体の超越」対「身体への没入」
「自我の超越」対「自我への没入」
つまり、彼は「仕事や身体機能の低下にとらわれず、それを超えた活動にやりがいや楽しみをみいだして自分にとらわれることなく後世へと引き継いでいく感覚を大事にする」といった事だ大事だといいたいんでしょうねえ。
・レヴィンソンの立場
次に、心理学者のレヴィンソン三の立場を見ていきましょう。
レヴィンソンさんは、計画サンプリングしたアメリカの中年男性を対象としたインタビュー調査にもとづいて独自のライフサイクル論を展開した人物で、老年期の発達課題には以下の様なものがあるとしています。
社会の関りと自分自身との関りにかんして新らたな形のバランスを見つける
死への道のりに慣れて死を覚悟を持って迎える
んー、なんかここまでの流れと変わり映えしませんなあ。
なんか、結局皆同じようなこと言っている気が、、、。
・バルテスの立場
最後に、生涯心理学者の創始者であるドイツのバルテスさんの立場を確認してみましょう。
ここまでの流れでは、老年期に強調されるのは「衰えを以下に受容し死に備えるか」といった視点でした。
しかし、バルテスさんの立場は少し違います。
バルテスさんは、環境への適応能力の獲得と喪失に関する理論である「獲得・喪失モデル」を提唱し、生涯に渡る発達的変化がどのような要因やメカニズムで生じるのかを理論化したんですね。
つまり、彼は「老年期になっても失うばかりではなく獲得できるものもある」と考えていたのです。
彼以前は老年期をもっぱら「喪失への適応」と考えていたわけですから、かなりの視点の転換と言えます。
老年期においては、自分のこれまでしてきた経験(非標準的要因)が多大な影響を持つので必要に応じしっかり納得してそれを改め、喪失に適応しつつも青年期同様に自己の成長を目指していく事が幸せな老年期の過ごし方という事になるでしょう。
バルテスさんの立場は、かなり現代的で前向きな考え方であろうと思いますね。
老いに対する心理学的な向き合い方
ここまでの話を踏まえて、個人的に老年期に絶望しないためには以下のような事を意識したらいいのだと思います。
・身体能力等の低下に対する受容
・社会とのかかわりを模索し継続しつづける(何らかの形で社会貢献活動をする等)
・自己成長を目指す(生涯学習や各種スキルアップ、通信制大学への入学、新しい趣味を始める等)
、、、大体こんな感じでしょうかねえ。
事実、ずっと学び続けるという姿勢が幸福感を増進させるという話はありますし、良好な人間関係が幸福感の大部分を左右するという話がありますから理にはかなっているかと思います。
とはいえ、、、中々身体能力等の低下を受容するのは厳しいものがありますわなあ、、、。
正直、わたしは以前の記事でも言ったように、内心勝手に「時期に年齢を逆転させる技術が出てくるだろう」なんて事を思っていて、それがある意味で生きる最後のモチベーションになっているところがありますな。
事実、つい最近になってまだまだ不完全ながらも皮膚細胞の年齢逆転に成功した事例がありました。
この事例では、山中因子を用いて53歳の女性の皮膚細胞をその機能を維持したままに23歳の状態へと戻しています。
参考
https://nazology.net/archives/107479/2
この実験だけでは、細胞のがん化の危険性等といった点などが未知数のためまだ何とも言えませんが、時期に肌の再生医療へ転用される可能性は高そうです。
顔の老化は、「脂肪細胞の老化」と「皮膚の老化」、「筋肉の萎縮」といった3つの次元から考える事ができますが、山中因子の活用によって顔の脂肪と皮膚は何とかなりそうな気がします。
そうなると、シワやたるみといった肌のトラブルは全く問題なくなる可能性がありますよな。
少なくとも、顔の見た目に関しては「22や23歳くらいの状態を死ぬまで維持し続ける」のは可能になるかもしれません。
まあ、問題はお金ですけどねえ、
そこはせっせと貯めるしかなさそうです。
ただ、脳細胞の培養や移植が可能にならない事には、何にもならないのでそこはまだまだネックでしょうかねえ。
てか、脳細胞の移植が可能になったら、なんとなく人工的に天才を生み出せそうでそれもそれでワクワクしますが、、、、まあ医療分野の進展をマジで切望していますよ、はい。
やっぱ今のところ、頭の回転や見た目の劣化は不快すぎて到底受け入れられないですな。
おわりに
この記事は「老いとは醜さでしかないのか?少し心理学的視点から考えてみようか」と題しておおくりしました。
今回は、心理学者たちがこれまで老意への対処をどのように考えてきたかについて概観してみた次第。
やはり、失うものばかりに目を向けないでいつも得られるものにも目を向けていきたいものですな。
あとは、、、、医療の進歩が急ピッチで進むことを祈るしかないっていう、、、ね。
それまではせっせとお金を起業でも投資でもなんでもやってためておくしかなさそうです。
そのうち、寿命や年齢をお金で買う時代が来る気がしますからねえ。
とりあえず、お金をためてやりたいことをやりつくしてその時に死にたいっすね。
まあ、1000年くらいあれば何となhttps://nazology.net/archives/107479/2るかね?
知らんけど。
では!
参考
https://www.tyojyu.or.jp/net/topics/tokushu/koureisha-shinri/shinri-rekishi.html
参考記事等