今回は以下のような人に向けておおくりします。
・守る強さと失うものがない強さはどっちが強いのか気になる人
・話しのネタが欲しい人等
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「失うものがない強さと大事なものを守るための強さはどちらが強いか?」という話です。
質問!
あなたは「失うものがない強さ」と「何かを守るための強さ」とどちらが強いと思いますか?
多くの人は、おそらく「何かを守るための強さ」と回答すると思います。
で、ちょっと、斜に構えた人は「そんなん捨て身の特攻ができる失うものがない強さじゃん」というでしょう。
はい、わたしなりの結論を先に言っておくと、「どっちも間違い」です。
簡単に結論と言っておくと、「最終的には感情に支配されず冷静な方が勝つ」ですね。
感情主体で突っ走ると人間は愚かな判断をしがちですし、多角的に考えればそもそも守るべきものがない人なんていないといえますから。
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では、ゆるりとおおくりします。
目次
守る強さと失うものがない強さとは何か?
では、「守る強さ」と「失うものがない強さ」とは何かについて考えてみましょうか。
まず「守る強さ」とは、「何か自分が大事にする人やものといったもののために発揮する強さ」です。
具体的に示すと以下のようなものですね。
- 自分の社会的地位を守るために奮戦する
- 家族や親友等を守るために体を張って戦う
- 自分の信念や正義のために戦う
こういった強さを発揮しやすい人は、概して協調性が高いと思われます。
では、次に「失うものがない強さ」の方を見ていきます。
「失うものがない強さ」とは端的に言うなら
「社会や他者との関係性よりも自分の欲求や感情を優先し、それでいいと心底納得しているがゆえに発揮できる強さ」
でしょうか。
もっというと、自分の存在を社会的文脈における色んな価値観などからほぼ切り離して「自分が気が済めばいい」と自己完結しているがゆえに発揮できる強さとも言えます。
ゆえに、英手して自暴自棄的になりやすいのが難点と言えそうです。
具体的に示すと以下のようなものでしょう。
- 相手に一矢報いるため刺し違える覚悟で特攻する(いわゆる無敵の人はこれっぽい気がする)
- 例え、逮捕されようと殺されようとどうでもいいので自分の我欲の赴くまま手段を択ばず欲望をかなえようとする(一番危険でいてほしくない奴。サイコパスとかがこれかな?)
- どんな状況であろうと、「まあ死んじまえば全部チャラだ」と思っているのであんまり動揺しない(これはワイ)
失うものがない強さを発揮しやすい人は、得てして協調性が低い傾向にはあるでしょうね。
なんせ、思考の起点が往々にして「自分の帰属する集団ではなく広義の自分の利害」ですからね。
※利害とはつまるところ「快と不快という感情」である。
ちなみにわたしの場合、最近は「失うものがない寄り」ではあるけど、完全に失うものがないのかというとそれも違うなって思っている次第。
まあ、そもそも人間の心理なんてみんなグレーだから白黒で割り切れないんだけどね。
実は、守るものがない人なんていない
一般に、「守るべきもの」と言うとその射程には、家族や正義、地位といった協調的な社会運営上望ましいとされる要素が含まれるものです。
しかし、もっと視野を広く持てば、「守るべきものがない人はいない」と言えます。
「守る」といえば聞こえはいいですが、「守る」とは悪く言えば「固執、執着している」ともいえるわけです。
そのように考えた場合、一般に「失うものがない人」であっても「復讐にとらわれている」とか「我欲に強く執着している」、「ひたすら力に執着している」、、、などといったように何かに執着しているといった点では「いわゆる守るものがある人」とあまり変わりがありません。
「ある特定の感情に執着している」のも見方を変えれば、「特定の感情を守っている」ともいえるのではないかという事です。
少々詭弁ぽいですが、間違っていないでしょう。
結局、一般に「何かを守ろうとする人」も「失うものがないので捨て身になれる人」も何かを守っているといえるのです。
結局、最後に笑うは膨大な熱量をもった計算高いやつ
世間には、「守るべきものがある人と失うものがない人はどちらが強いのか」といった論争があります。
しかし正直、両者の勝敗は「守るべきものがあるかないのか」では決まりません。
もちろん、ある限定的な状況では守るものがないものの方が強い可能性は否定できませんね。
ただ総合的に考えると、守るものの有無だけで勝敗が決まるとは思えません。
両者が戦った場合に、勝つのは「感情に支配されず最後まで計算しつくして合理的に戦った方」です。
例え、守るものがある人であっても「~を守るために戦うんだ!」なんて意気込んでも感情的になっていたらただ突っ込んでいくだけで犬死するかもしれません。
それは失うものがない人とて同じことです。
感情主体になった時人間の判断能力は大きくそがれるもの。
たぎる野心であれ高ぶる正義感であれ、それに飲まれては何にもならないのです。
ただし、そういった「何としても~をやり遂げる!」といった強い感情は行動を成し遂げる時の大いなる動機となり困難を打破する力となります。
しかし、同時に「冷静で戦略的」でもなければただただいたずらに死体を荒野にさらすのみ。
結局、「感情に支配されたほうが先に死ぬ」と言っていいでしょう。
感情は行動を動機づけるという意味では味方ですが、判断力を鈍らせるという意味では敵です。
強い感情を持ちながらもそこから一歩引いて冷静に状況を見る冷徹な視点を持ったものが、最後に勝者になるといえます。
向こう見ずに体を張って何かを守ろうとする愛情深いものも、復讐の炎に身を焦がして刺し違えようとする無法者もただの自殺志願者でしかないでしょう。
どんな時も「その手段が目的達成のために最適なのか」という視点を失ってはいけないわけです。
一概に断定はできないものの、頭さえ回れば一般に足かせとなるものが増えても頭を回すことでそれが足手まといにならない状況も作れるでしょうしね。
そんなわけですので、いわゆる無敵の人は決して強くなんかないです。
彼ら彼女らは得てして「自暴自棄なだけ」なので、「復讐にとらわれ自爆テロ的行為を働く」といった以上の危険性は持っていないといえるでしょう。
たしかに、これはこれで非常に脅威なのですが、計算高く着々と支配力を強め理不尽を正当化するようなシステムを構築していくサイコパスの様な悪辣な連中と比べたらその脅威や予想される損害は総合的に見て軽微だと思います。
もっとも、無敵の人が増えすぎて一斉蜂起し集団暴徒化する等となれば話はちょっと違いますけどね。
ただそれをいったら、協調し結束して社会を防衛するために立ち上がる人々の力もばかにはできませんな。
個ではしがらみがあって弱くとも協調性のある人たちは集団を形成しやすいので、そういった意味では現実的にはかなり強いでしょう。
対して、我欲だけで動く人は基本的にいつも一人ですからねえ。
まあとりあえず、戦いの勝敗は「感情に飲まれず冷静に戦略的に行動した方の勝ち」であるというのは間違いないでしょう。
おわりに
この記事は「失うものがない強さと大事なものを守るための強さはどちらが強いか?」と題しておおくりしました。
ちょっと今回は少しとりとめがない内容になってしまった気もしますが、結局「感情に流されたものは敗者になる」という事が言いたかったまでの事です。
勝つためには強い気持ちだけではだめで、冷静に勝ち筋を考える頭がないと話にならない訳ですね。
結局、自暴自棄になっている無敵の人もやみくもに体を張って誰かを守ろうとする人も同じ様な人だといえます。
感情に支配されて盲目的になっているという点では完全に同族ですね。
感情に任せて行動してはいけないのです。
まあ、そんな感じですねえ。
では!
参考記事等