自己肯定感(自己重要感)が高いとか低いとかどうでもいいのかもしれん

「最近、自己肯定感を高くしようっていう心理系の発信者がすごく増えているけどみんな言う事同じよな。しかも、そもそも自己肯定感って高けりゃ高い程いいんかい?なんか高いことが正義みたいな風潮だけどなんか違う気がする、、、なんとなくだけど。」

ふむ、それはそうじゃ。

何事も程度ってもんがあるからね。

行き過ぎればそれは毒だもんな。

オニギリス!

脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。

今回もよろしゅう!!

今回の話題は「自己肯定感(自己重要感)が高いとか低いとかどうでもいいのかもしれん」という話です。

今回は以下のような方に向けておおくりします

こんな人が読むと役に立つよ

自己肯定感を高くしようという風潮になんか嫌気がさしている人
・自己肯定感が高いほどいいのか正直疑問な人
・話しのネタを探している人等

あまり大きい主語を使うのは好きではないんですが、割と日本人の多くが低い自己肯定感に悩まされているのではないでしょうか?

だからこそ、こんなにも世の中には「自己肯定感を高めよう!」というコーチやカウンセラーが沢山いるんだと思います。

しかし、わたしは最近凄く思うんですよね。

「そもそも自己肯定感ってあげようとしてあげるものではないのでは?」

と。

以前の記事でも書いたのですが、自己肯定感は無条件に高ければ高いほどいいって話にならないと思うんですよね。

詳しくは以下参照。

もっとも、わたしは「自己肯定感の高さは人生の幸福度を大いに左右する」と思っております。

ただね、「あげようとして上がるものではなくて結果として上がるもの」という認識が適切ではないかと思うんです。

ここで一瞬だけ宣伝?ですが、「悩みがあんよなー」て人も「ただ誰かに愚痴を言いたいねん!」て人も悩みが重症化する前に頭をクリアにしてみませんか?

おにぎりのカウンセリングについて詳しくは以下。

では、ゆるりとおおくりします。

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自己肯定感の暴走とエゴイズム

自己肯定感とは、「ありのままの自分を受け入れる感覚」の事です。

※自己肯定感と自己重要感、自尊心は同じものと考えて差し支えない。

具体的に言うと、「自分には長所もあるが短所もある。でも、総合的に見て自分に満足している」という感覚のことです。

人間は誰かと自分を比較することによって、「自分は他人より優れている」とか「自分は他人よりも劣っている」等と一喜一憂して自信過剰になったり自信を喪失します。

ただ、他者との比較により大体の場合は総じて自信を失ってしまうので、「人間は比較するから不幸になるのだ」なんて言われてしまっているわけです。

そこで自己肯定感の出番。

自己肯定感は、他者と比べて認識される感覚ではないので劣等感の源泉となる事はないわけです。

自己肯定感が高いと自分のメンタルがいちいち誰かの存在によって脅かされなくなります。

「ありのままの自分を受け入れた人」にとっては、まさに「人は人、自分は自分」という話。

これは確かに「その人個人にとってはそれでいい」んです。

見事に自己完結していますから。

しかし、問題はあります。

それが自己完結させすぎると「他人なんてどうでもいい(悪い意味で)」と思う可能性があるという点なんです。

これは「自己肯定感の暴走」とでも呼んでいいような事態でしょう。

「わたしはわたしに満足しているから他人の目なんて知ったことじゃないよ」とか「他人なんてどうでもいいさ。わたしはわたしだ」といった考え方は、その本人にとってはいいのですが接する方からしたらたまったもんではない事も多々あります。

例えば職場に全く働かない同僚がいたとして、その同僚が「俺は俺だからさ。別に治すとこなんてねえよ」とか言っていたらどうでしょうか?

まあ、「こんな謎な精神の奴いねえよ」て感じでしょうけどもそれは置いといて、もしいたらどうですか?

凄く腹が立つし「何言ってんのこいつ?」てなりますよね。

極端な例ですが、自己肯定感が暴走すると「自分が満足しているからそれでいいんだよ。てめえら口だすんなや」みたいなエゴイズムにおちいる恐れがあると思うんです。

まあ、自己肯定感ばかりが肥大化すると社会性を喪失する可能性も無きにしもあらずかと思うんですよ。

人間ってやはり社会的動物ですので、社会性がなくなってしまっては一時的にはそれでよくても後々かなり生きづらくなります。

「自分は自分」でもいいのですが、「相手に対する配慮」は欠かせません。

自己肯定感ばかりが肥大化すると、本人もその人と接する相手のどちらも最後には損をするといえます。

また「自分は自分だから」という心境が悪い方向に働くと、「自分は自分だからもう変わんなくていい」という話にもなりうるので、一向に直面した問題を解決できない可能性すらありますね。

、、、なかなか、難しいところです。

ただこれはかなり極端な例ですので、現実には自己肯定感を高めたからと言ってここまでひどい事にはならないと思いますがね。

あくまでも思考実験の一種ですな。

ちなみに少々余談ですが、あのアドラー心理学も一見すると自分勝手な理屈を唱えているように聞こえますが、そもそもその理論の大前提に共同体感覚、つまり「人は互いに助け合う仲間だ」といったものがあります。

やっぱり、個人だけで完結させすぎては社会性が喪失され当人と社会がお互いに損失を被るという問題意識がきちんと理論に反映されているんですな。

自己肯定感を高めること自体を目指すのは間違いかもしれない

世の中には、「自己肯定感を高める」事を目的とした多くのネット記事やセミナー、書籍が存在しています。

それだけ自己肯定感には需要があるって証拠ですね。

まあ実際、わたしも過去に自己肯定感の高め方についての記事も書いているので、人のこと言えないんですけど。

それはともかく、最近は自己肯定感自体を高める事を目的として行動するのは、本末転倒なきもするんですよね。

自己肯定感とは他者との比較によらない感覚であるため、言ってみれば心理的には「自分の世界を閉じていく」方向性の代物と言える気がします。

当たり前ですが、意識が自分にばかり向かって閉じた世界しか認識できないようになると他の人との衝突が凄く増えていく事になります。

そうすると、結果的にはただの独りよがりの嫌な奴になって生きづらくなることもあり得るでしょう。

なので、「世界を閉じ過ぎずある程度開けておく」必要もありますね。

「ほどほどの比較は必要」とか「常に客観的に自分を見る視点を持つのが必要」、と言い換えてもいいかもしれません。

「今、自分が置かれている立場はどんなものか?どう目の前の相手と接するのが適切なのか?」という視点には比較が用いられていますから、比較も凄く重要です。

要は、他人に対して譲るところは譲り、譲る必要がないところは譲らないというバランスが重要って事。

自己肯定感が高すぎると自分に関することは何でも譲る必要がないって話になりかねませんからね、、、バランス悪そうです。

いつも客観的な視点を忘れずにいたいものですな。

あなたの大事なものは何だろうか?

大抵の日本人の場合、自己肯定感がかなり低いので「自己肯定感をあげよう」というアプローチでいいのかもしれません。

しかし、わたしはそれだとどうもいずれは頭打ちになる気がしてなりませんね。

というのも、「自己肯定感を高める」とはある種心の扉を締めていく事に相当するので、いずれ独りよがりに陥る時が来るでしょう。

なかなか、自己肯定感を高める事ばかりに意識が向くと視野を広く持つことは難しいのです。

そのため、わたしは「自己肯定感の向上自体を目的とするのではなく、結果として自己肯定感が向上するように行動する」のがいいと思うわけですな。

じゃあ、具体的にどうすればいいかと言うと、それは非常にざっくりと言うと

「自分の大事したい価値に沿って行動していく事」

で実現できます。

しかも、この方法なら理論的には幸福度も高くなるでしょう。

実際、ある程度確立されてエビデンスもしっかりしている心理療法であるアクセプタンス&コミットメントセラピーによるアプローチです。

わたしとしては、「自己肯定感自体を高めようとするよりも自分の大事にしたい価値に沿って生きていく事で結果的に自己肯定感が高くなる」というのをおすすめしたいところ。

詳しくは以下の記事参照。

おわりに


この記事は「自己肯定感(自己重要感)が高いとか低いとかどうでもいいのかもしれん」と題しておおくりしました。

自己肯定感をあげる事ばかりに躍起になると、結果的にただのエゴイストになってしまう可能性も否定できないでしょう。

なので、自己肯定感を高めるという目的を掲げ行動するよりも「結果として自己肯定感が高まるように行動する」のが望ましいと思います。

その為にも自分の大事にしたい価値を探す事から始めてみるといいと思ったりしますな。

では!

参考記事等

いつも明るい人は実はものすごく闇の深い人かも?見た目じゃわからない深い闇。

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