今回は以下のような方に向けておおくりします。
・子供は親を選んで生まれてきたという意見にデリカシーがなくて腹が立っている人
・子供は親を選んで生まれてきたという仮説の功罪について考えてみたい人
・話のネタが欲しい人
「なんかスピリチュアル系の人には、子供は親を選んで生まれてきたなんてことを言っているのがいるみたいだね。頭大丈夫なのかね?さすがにバカすぎる。てか、それ虐待された経験のある人にも言えんのかよ?デリカシーなさすぎだろ。ふざけんなって話。」
ふむ、まあ今の常識で考えるなら、「頭がおかしい意見」の部類に入るだろうなあ。
前世とか言ってしまう時点でお察して感じがするわ。
オニギリス!
脱マンネリストで心理カウンセラーのおにぎりです。
今回もよろしゅう!!
今回の話題は「「子供は親を選んで生まれてきた」という前提は総合的に見て害悪か?」という話です。
最近、親ガチャと子ガチャについての記事を書いていてふと思い出しました。
「そういえば一部の人達に子供は親を選んで生まれてきたなんて暴論をの類を主張している連中がいたな」と。
正直、個人的にはこの手の意見には割と嫌悪感があり否定的なのですが、「もしかしたら何らかの意味では有益な事もあるのでは?」なんて思ったりもしました。
そこで今回は「子供は親を選んで生まれてきた」という仮説を採用することによるメリットとデメリットについて考えてみたいと思う次第。
では、ゆるりとおおくりします。
目次
「子供は親を選んで生まれてきた」という仮説の成立根拠は何なのか?
色々と調べてはみましたが、「子供は親を選んで生まれてきた」の成立根拠やその提唱者が誰かといった事は断定できそうにありません。
この仮説は一体何の根拠を元に成立し、誰がその仮説の骨格を構築したのか、、、実に謎が多いです。
ネットを調べてみた感じだと、「子供は親を選んで生まれてきた」を主張する人は、その根拠として「体内記憶」を持ち出すことが多いようですね。
胎内記憶とは、簡単に言うと「胎児の時の記憶」であり医師の池田明さんによって一般に広ろめられた概念だといいます。
そして、胎内記憶が存在するのかいなかに関しては、現在も状況が混迷しているようです。
体内記憶の存在不存在自体は何ら問題ありませんが、同氏の主張を拡大して「胎内記憶を受胎前の記憶(過去生記憶、中間生など)や誕生時記憶なども含めた総称」へと変化させている者達がいる事が問題です。
胎内記憶支持者の中には、「前世の記憶がある」なんていうこれまた荒唐無稽な事を言い出す人たちがいるんですよ。
このような胎内記憶の拡大解釈をベースにして、「子供は親を選んで生まれてきた」という仮説が誕生してしまった推測されます。
この手の仮説を語る人たちは、「死後の世界」や「前世」といったものを信じているわけですが、そもそもそういったものが存在することを立証しない事にはこの仮説の真偽を確かめることは不可能だとも思うんですよね。
「その前世や天上世界の記憶というものがそれだけの普遍的妥当性を持つものか検証したのか?検証するべく努力を続けているか」は結構大きな問題です。
もしかしたら、この手の「前世の記憶がある」と自称する人が、「わたしはそう思います」とか「前世や天上世界での記憶がある人の話を聞いたことがある」等といった思い込みや経験を根拠として作り上げたトンデモ理論が「子供は親を選んで生まれてきた」なのかもしれません。
もうこの際なので言ってしまうと、まず真っ先にわたしはその記憶というものは、まずは「何らかの疾患に起因するもの、ないし人間の生理作用の一種として発現したものかどうかという観点から検証されるべき」だと思います。
正直、スピリチュアル系統の理論には「いったもん勝ち」に思えるものが沢山あるような気がしますから。
特に「子供は親を選んで生まれてきた」という仮説は、毒親の悪行を肯定することも容易に可能にする理屈なんでね、、、まあ野放しにしていいとは全く思えませんよ。
とはいえ、わたしは「いわゆるスピリチュアルの何でもありで十分にそのよって立つ根拠の真偽をはっきりさせない姿勢」といったものに有害性を感じているのであって、それを信じている人たちを「害悪になる人間」等と思っているわけじゃないんですな。
むしろスピリチュアルにハマる人たちの多くは精神的に不安定で、頼るところを間違えている人たちと言った印象がありますから、ある意味トンデモ理論による被害者ですらあるといえる気がします。
※霊が見える場合の多くは、パレイドリア現象によるものと考えていいのかもしれない。
まあ言い方に多少トゲがあるかもしれませんが、心療内科のお世話になるべき人達が多い印象があるんです。
もちろん、全ての人がそうではないでしょうけど。
例えば、人間はストレスにさいなまれると幻覚を見たりもしますね。
もし、幻覚が見えるなら相談に行くべきは医師のところです。
間違っても霊能者のところではありません。
もしかしたら、認知症である可能性だってありますしねえ、、、。
そういった状態はほっとくと危険です。
ただ、子供がそういった事を言っている事例も沢山あるようなので、その場合は疾患の可能性は低そうですなあ(てか、という事にしておく)。
ま、個人的にはどちらにせよ思い込みの類だとしか思えませんけどね。
「子供は親を選んで生まれてきた」という仮説は有害なのか?益はないのか?
わたしは「子供は親を選んで生まれてきた」という仮説が広く世の中に共有されることを害悪であると思っています。
しかも、「子供は親を選んで生まれてきた」という仮説の正しさを、わたしは非常に疑問視しています。
というか、本音を言えば「寝言は寝て言え」と思っていますね。
、、、とはいえ、わたしは「本人が幸せになるのに役に立つなら基本的に何を信じたっていいのではないか」といった立場をとっています。
ですから、「子供は親を選んで生れてきた」という言説が「それを信じることで本人の幸せに資する」のなら何ら問題はないのです。
ただこの考えが人の幸せに資する場面というのは割と限定的だと思っています。
実際、この手の考え方に苦しめられている人というのも結構いるようですしねえ。
特に、親から虐待をされていた人達はこの手の意見にかなり苦しめられている気がします。
例えば、ツイッターを検索してみると以下の様な感じになっている模様。
https://twitter.com/sora69888467/status/1392011192554516481?s=20
https://twitter.com/aaaaaaaatsurai/status/1385195308238340098?s=20
https://twitter.com/haniwafactory/status/1093523016913321984?s=20
以上から、「子供は親を選んで生れてきた」という説の有害性は以下の通り。
- 虐待する親側の正当性を担保する根拠として濫用されうる
- 虐待された側が「自分が選んできたなら仕方ないのか」と絶望感を感じてしまう
- 子供を産んだ人に「きちんと育てるべき」という強烈なプレッシャーを与える
- 子供を生みたくても産めない人には「自分は選ばれなかった側の人間だ」との失望感を与える
ふむ、ただこれではフェアではないので「子供は親を選んで生れてきた」という言説の有益性についても確認しておきますかね。
ツイッターを見てみると、子供は親を選んで生れてきた」という言説の有益性等については以下の様な意見があるようです。
やはり「子供は親を選んで生れてきた」という言説の批判は多いのに対して、それを肯定する意見はあまり多くはないような気がします。
あえて上記の「子供は親を選んで生れてきた」説に対するポジティブな意見を総括すると以下の通り。
- 「子供に選ばれた」という自覚によって子供を愛することができるようになる場合もある
- 人生には意味があると思えるようになる。
こんな感じでしょうかね?
「自分で今の親を選んで生まれてきたんだ」と思うことで、「自分で選んだんだから仕方がない。きっと何か自分の人生には意味があるのだ」と思える人はいいでしょう。
しかし、こんな事を受け入れられる精神状態の人なんて、基本的には相当いい家庭環境に恵まれた人だけだろうと思います。
荒んだ家庭に生まれた多くの人にとっては、「自分で今の親を選んで生まれてきた」という言説は、凶器にしかならないと思いますね。
メリットとデメリットをこうして見比べてみると、やはり害の方が多い気がしてなりません。
特に、毒親が子供に加害する際の自己正当化の方便として機能するという面は、看過しかねますね。
総合的に見て、非常に有害性が高いといえます。
個人的にはこの手の考えは、社会において広く共有されるべきではないと思ったりしますね。
まして、「これが真実です」みたいに主張するのは自重してほしい限りです。
何かふつふつとそのデリカシーのなさに腹が立ってきます。
まあ、「こういう風なロジックもありますよ」という提案ならいいんですけどね。
自分がその考えで幸せになれるのならば問題はないが、人にすすめるのは大間違いである
上述のように、「子供は親を選んで生まれてきた」という仮説は、総合的に見て有害性が高いものと言えましょう。
しかし、個人が勝手に信じている分には本来問題はないです。
もっとも、「子供に理不尽を強いるための方便として濫用しない」、「自分だけにとどめて他人に強制しない」というのが絶対的前提ですけどね。
人は結局のところ、「自分が信じたいものを信じている」にすぎないといえると思うので、少々乱暴ですが個人の中では「自分にとって真だと思うことが真である」と言えるでしょう。
例えば、神がいると思う人にとっては神はいるが、神はいないと思う人にとっては神は存在しないって感じでしょうかね。
神の存在証明はこれまで哲学等の分野で何度も試みられてきたといいます。
わたしの知った少ない情報をもとにしたつたない理解によると、結局このような議論は「神の存在を前提にした方が世界の成立を矛盾なく説明できるので神の存在を肯定する」という感じに落ち着いたようです。
しかし、最近ホーキング博士により「宇宙の誕生は無から始まった」ということが一応証明されたため、世界の成立に神が不要になってしまいました。
結局は全て偶然の産物だという事のようですね。
神の意志などどこにも存在していないって話です。
わたしはしっくりくるのでこの説を採用して生きている次第。
それでも多くの人は愚かなるか賢なるかはともかく、相も変わらず神を信じ続けようとしています。
というか、結局「信じたい」といった方が正しいのでしょう。
これはわたしのように科学的根拠を重んじる人達に対してもおそらくいえることで、結局私たちは「自分が信じたいものを信じているに過ぎない」のかもしれません。
そんな風に考えた場合、わたしは「結局その人が幸せに生きるのに有効なのであれば神を信じるのもありかもしれん」と思うわけです。
全ては「当人が幸せになれるかどうか」ですな。
そして、「人生には何か与えられた意味がある」と言った思考になる事自体は、フランクル医師が創始したロゴセラピーに見られるように非常に有益な側面を持っています。
ロゴセラピーについては以下参照。
なので、「自分が選んだからには何かの意味があったのだろう」とか「自分で選択したならこの人生を受け入れるしかない」等と考えることで、自分の人生を無条件に肯定し受け入れる事につながるかもしれませんな。
このように作用すれば存在意義の確立や自身の存在の肯定につながるので、自殺防止やレジリエンスの強化として機能するでしょう。
しかし、「子供は親を選んで生まれてきた」という言説が、中々こんな風にうまくいく機能する事はない気がします。
それこそ「人生が上手くいっている人限定でしか役に立ちそうにない」って思いますな。
基本的に精神的につらくなっている人に対して、この手の考えは非常に有害な気がします。
わたしは精神状態が不安定になっている人に、客観的妥当性の有無が十分に検討されていないものを心のよりどころにする事は推奨しかねますね。
心のよりどころにするものはなるべくうまくいかなかったときの方針転換や改善も見越して、客観性がある一定以上担保されたものであるべきだと思うんです。
安易にどこぞの誰かの思い込みに端を発したような暴論の類を信じるべきではありませんね。
おわりに
この記事は「「子供は親を選んで生まれてきた」という前提は総合的に見て害悪か?」と題しておおくりしました。
「子供は親を選んで生まれてきた」という仮説は、総合的に見てかなり有害であり個人の幸せを増進するよう起毛する場合はかなり限定的であると思います。
なので、個人的にこの手の考えが広く社会に共有される事には反対です。
益より害の方がおそらく多いと思います。
とはいえ、人に強制しないなどと言った様々な条件の下、個人の幸せに資するならとりあえず何を信じてもいいとは思わぬではないです。
まあ、あまり他力本願なものはどうかなって思いますがね。
では!
参考
https://www.gohongi-clinic.com/k_blog/43857/#i-2
https://www.gohongi-clinic.com/k_blog/43857/#i-2
参考記事等